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大滝詠一氏を偲んで=謎の音楽仙人『A LONG VACATION/まとめ』

公開日: : 最終更新日:2014/02/28 LifeHack of eureka! , ,

niagara Records
昨年(2013年12/30)大滝詠一さんが解離性動脈瘤-のため急逝されました。まだまだ若く65歳でした。

謹んで大瀧氏のご冥福をお祈りし、素晴らしい楽曲に巡り会う時代をともに共有できたことを感謝いたします。

氏のご冥福を偲び『音楽仙人=大瀧詠一』をまとめてみました。

大瀧詠一が関わった楽曲・マニアックからヒットまでの道のり

独自のサウンド感性での「ウエット」と「ドライ」のこだわり

1960年代後半から70年台中頃まで日本語をロックやポップスにどのように載せて馴染ませていくのか論争があった。

大瀧氏はその頃からメランコリーなロマンチックな曲(ウエット)を作りながらコミカルな日本の音頭などとロックのビートを織り交ぜたりしてアナーキーな楽曲(ドライ)も精力的に制作していた。

氏の独特なサウンド感覚はこの頃からスタートしている。

それぞれ突き詰めて楽曲を提供し、試行錯誤していた時代があったがそれが70年代に熟成されていくものの「世には受けいられず」不遇の時代を過ごすが75年に『NIAGARA Records』を設立し以後これら別々に作っていた楽曲を融合させながら新しいポップスを模索していくことになる。

サウンド・プロデューサーとしての自身の位置づけはこの頃から確立され、歌い手としての大滝詠一は自身認知されていなかったという。

「歌はサウンドで聴くもの」として当時歌手のものとされていた楽曲に不満があり世間の位置づけに異議を語っていたこともある。

そして70年代を終えて80年代はじめにそれまで試行錯誤していた60年代から70年代までの自身の楽曲の融合にトライしたのが81年に発表された「A LONG VACATION」です。

このアルバムが80年代の日本の歌謡曲内でのサブカルだった「ニュー・ミュージック」の草分けになり、その後の音楽界のバイブルと言って良い位置まで昇華したのです。

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謎の大瀧詠一氏の「A LONG VACATION」は終着点だった。

Credit title アルバム『A LONG VACATION』(1981年3月21日)
シンガー:大滝詠一・作詞:松本隆・作曲:大瀧詠一・編曲:多羅尾伴内(大瀧詠一)

楽曲秘話 今の30代後半までの方は「大瀧詠一」という人物を全く知らない方も多いだろう。

大瀧詠一を知ったのは81年(昭和60年)に発表された「A LONG VACATION」翌年82年にはオリコン初のミリオンアルバム(100万枚突破)になり日本の音楽界に衝撃を与えた、このアルバムが世間で言う「大瀧詠一」を知ったはじめであり出発点であった。

78年ナイアガラ・カレンダーを出して三年間「A LONG VACATION」構想を練る、それまでは「チョイ出しの大瀧」と言われていたので、今まで作ってきた楽曲を一色単にまとめてみたと語っていたことを思い出す。

佐野元春氏が以前語っていたのだが『日本のAORソングが初めて出来たと考えても良いだろう』っと言っている意味がいまさらながら脳裏をよぎる。

まさに日本でのAORの立役者でロックやソウルまたはR&Bとを日本独自の歌謡曲も含めてクロスオーバーさせて昇華させたのが大瀧氏の『AOR』だったのかも知れない。

『A LONG VACATION』は時代を超えてもいつまでも好まれる『日本のAOR』だ。

参考AORとは?

1970年代から1980年代初めにかけて、米国で「Audio-Oriented Rock」という言葉が使われた。 これは「音を重視するロック(音志向ロック)」の意で、パンクムーブメントやHM/HRといった若者向けのラウドなロックとは方向性が異なり、クロスオーバー的なサウンドと大人向けの落ち着いたヴォーカルが特徴である。
ミュージシャンとしては、ボズ・スキャッグスやクリストファー・クロス、74年以降のシカゴがあげられる。

参照音源:Billy Joel “Piano Man”Live At Tokyo 2006)

しかし、当時、大瀧氏自身は「A LONG VACATION」を終着地として考えていたようだ。
氏は今作品が自身の完成形であったと考えていたようです。

「A LONG VACATION」リリースまでの道のりと逸話

また、この作品は当初の計画では80年の夏にタイトルに似合うシーズンにリリースされる予定でしたが、作詞家である松本氏の妹が逝去され「作詞ができない」事になり一旦断った経緯があります。

しかし大瀧氏の要請で「発売を延期し、待つ」ことになり結局、81年の3月までリリースできませんでした(松本氏:談言)
氏はどちらかと言うとプロデュースに興味を持っているような傾向にある。

自身のシンガーとしての認識は低く「A LONG VACATION」が世に出てから後に周りから気付かされたようであり世間が思っているほど氏は関心がない。

もう一つ大瀧氏の「Credit title」によく出てくるのが編曲者での『多羅尾伴内』だ。
この名前は比佐芳武(ひさよしたけ)のミステリー映画の中での主人公の名前からとったものであるが、大瀧詠一氏へ後日逸話がある。

アルバム「A LONG VACATION」リリースに続いて松田聖子に楽曲を提供していた「風立ちぬ」のヒットにより比佐親族の知るところとなり名前を差し止められた経緯がある。

ヒットしなければ差し止められなかったかは今では愚問でしょうが、大瀧氏は良くペンネームではないけれど別名や変名を名乗ることがある、氏の独特な「おふざけ」なのでしょう。

プライベート「A LONG VACATION」

当初このアルバムはアイドル歌手のようなヒットの早さはなかった。徐々に広まり最後はドット来た感じでしょうか。

当時学生だった私は、レコード店でアルバイトをしており、それまでなんの興味も持てなかったこのアルバムがある日「突如として飛ぶように売れる」様を目撃しております。
その日以来コーナー作りや仕入れに苦労した覚えがありアルバイト生活の中で唯一楽しく忙しかった思い出が残っております。

「詠み人知らず」というポリシーで貫いた音楽人生

プロデューサー・作曲家・アレンジャーに徹していた、様々なアイドルやアーティストに関わって裏方に徹している。

昨年NHKでヒットした朝ドラ「あまちゃん」の中でヒロインの母小泉今日子の部屋には80年代のアイドルのポスターが貼ってあったことを覚えているだろうか?

大瀧氏はこれらのCMソングから始まり太田裕美・松田聖子・薬師丸ひろ子・小泉今日子・シャネルズ・森進一など様々な歌手やアーティストに楽曲を提供しているが、一方では山田邦子や鶴太郎など芸人などへコミック・ソングにも楽曲を提供している。

僕は「職業作家」ではないと語った

大瀧詠一は自身の存在に関しては「世に名を残したく思わない・・」という。

大瀧詠一の作品じゃなく、歌っているアーティストとしてシンガーとしての名誉欲は一切ないと語っている。
自分の理想とするサウンドを目指して作り上げ残して、リスナーにこの作品を自身のものにしてくれば幸いだと考えた。

地道に音楽活動をやってきて、大瀧氏も自身の作品は「世間に理解されないのかも・・」と苦労した時代が続いたが「作品は自分のものにしてくれれば良い、自分は興味のあるサウンドを突き詰めて研究し追求したい・・」と語っている。

音楽以外にも色々な、芸能ごとを研究し尽くして、楽曲に活用している。
サウンドクリエーターの中でも職人的な気質をもつ大瀧氏はやはり『音楽仙人』だったのでしょうか。

また氏は周りから「よく昔の年代をよく覚えてるね」と茶化される。
しかし、自分史じゃないけれど人と話をするときは「何年」ということを言わなければならないという『例えば若い人(18歳ぐらい)がよく「昔は・・?」と話をするが私には滑稽に思える』なにかおかしいと思わないか。

大瀧氏は主に西暦で話をする。

音楽仙人=大瀧詠一のこだわりLIFE

浅草キッドの水道橋博士によれば、氏の自宅には大型のアンテナが並び立ち日本中の電波を集めている。

80年台後半からレーザーディスク・VTRなど100台もの(自身も27台までは数えたらしいが定かではない)機材が全て稼働中で、悩みは家の電力供給に関することでついには自家発電をも導入したと聞く。

また無菌状態の部屋で暮らしているらしいタバコ・ホコリだめなぜなら機材の為らしく空気清浄機がいたるところに・・・(水道橋博士:談)

自身は75年からラジオのDJを勤めたことから無類のラジを好き、番組ではニッポン放送の長寿番組である「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」などをラジオで聞いている。

大瀧氏曰く「情報とは捨てることなり」

どうしてこんなことをするの?録画したテープは後で観るのか?と水道橋博士に尋ねられると・・
「情報とは捨てることなり」何を捨てるか勉強しているらしい?。

無類の動画・電波ウオッチャーで「仙人になることが夢・・」と自身が語っている。

やっぱり大瀧氏は無類の『音楽仙人』だ。先ほど同じく惜しまれつつ亡くなられた「やしきたかじん」も無類のTVウオッチャーとして記憶に新しい。

番組内で水道橋博士から命名された名前が面白い、大瀧氏のことを『LONG VACATION成金』だと言っていた。
返す言葉で、大瀧氏は『平成のディック・ミネ』という。

どうやら、無類の変名を好む御仁だった様子でこれも氏の「おふざけ」の賜物ではないのか、上手くそこを水道橋博士は突いていたようです。

ディック・ミネ:戦後活躍した日本のブルース・ジャズの草分け的歌手であり俳優でもある。本名:三根徳一(みねとくいち)徳島市生まれで、創世記のテイチクレコードの立役者。昭和のスターだったフランク永井・ジェームス三木・藤田まこと・植木等などの面倒を見て育てている。

このことから大瀧氏はプロデュースに関心があることを窺い知ることができるのではないだろうか・・単なるおふざけで言っているとは思えなくなる。

サウンド・エピソード/音楽仙人=大滝詠一

エピソードⅠ:サウンド感性=バック・グラウンドを検証する。

1948年7月28岩手県釜石生まれの大瀧氏のサウンド感性に多大な影響を与えたのはやはり幼少期から青年期まででしょう。

今の人が言うには「大瀧詠一さんのサンドはアメリカン・オールディーズの影響が大きい」というが、本当はそれだけではなく根底には当時の時代背景から検証すれば興味深いものが見えてくる。

十歳の頃まで釜石の山の景色ばかりを眺めてたと氏は言う、好きな歌は、春日八郎の「お富さん」ばかり歌っていた。

都会的なセンスが溢れている曲を作る氏だが、幼少の頃のバックグラウンドは日本の落語や浪曲やドドイツまで・・含めた歌謡曲だった。

あまり知られていないがクレイジーキャッツや落語を好んだりして、小学校で落語を独演したりして笑いを誘い先生に褒められたこともあるという。

そして後に50年代から60年代のアメリカンPOPSへと流れる。

中学一年(61年)ポップスを初めて聞くコニーフランシス「カラーに口紅」やエルビスの歌を聞き衝撃をうける。テープレコーダー(磁気録音用のオープンテープ)に録音しヒヤリングする。

そのために行ったことは、米軍の三沢基地から発信されてた『FEN』という短波放送(極東放送)の「ファンダイヤル」という番組を聞くことに没頭する。

家の屋上には短波受信用の針金を張り巡らしていたという、少しでも良いコンディションで聞きたかったのでしょう。
余談だが吉田拓郎や井上陽水も同じことをやっており、少年時代から音楽に対するこだわりと音響機材にはマニアック。

海外の楽曲が半年ほど遅れて日本に入ってくるので来た頃には全部知っていたとのこと電波で直接アメリカとつながっていた。

62-3年ビーチボーイズ(ドントウオーリーベイビー/サーフィンUSA)がお気に入りバックグラウンド・ミュージックその頃日本でヒットしていたのは橋幸夫(あの子と僕・スイムスイムスイム)だった。友達とはあまり話が噛み合わなかった。

当時、自分が日本でのアメリカンポップス・マニアの中で一番だと自他共に自負するほど自信があったと語っている。

参照音源:春日八郎 「お富さん」
参照音源:CONNIE FRANCES Lipstick On Your Collar(カラーに口紅)
参照音源:The Beach Boys Don’t Worry BabySurfin Usa

はぴいえんど時代

67年に東京に出てきて細野晴臣と出会う、初めて知識の共有ができた人物に出会う。

当時は音楽評論家かDJ になりたかったと考えていた。

細野晴臣と松本隆・鈴木茂らに出会い「はっぴいえんど」を結成。かなりの自信家だった連中だけどミュージシャンで生活できるとは思っていなかったという。
70年に結成し73年には解散。三枚のレコードを出した。

コミックバンド好き!?

三橋みちや春日八郎から始まってコニーフランシス・エルビス・ビーチボーイズからクレイジーキャッツまで網羅した。
クレイジーの曲も作っている青島幸男氏と30周年記念として新しいアレンジで作っている。

芸能では音楽の前にお笑いが好きだった。落語が好きだった、漫才やコミックバンドが大好きビジーフォーも好きと聞く。

66年にビートルズが来た時武道館で、ビートルズより前座のドリフターズの「のっぽのサリー」ロング・トール・サリーが良かったと語り、それが「私にはウケた!」という。
コミックバンドをしたかったができなかった。ドンキーカルテットが好き。お笑いと相撲・野球が大好き!

参照音源:ザ・ドリフターズ ビートルズ来日公演前座

エピソードⅡ:『夢で逢えたら』

Credit title::アルバム『FLAPPER』/『夢で逢えたら』(1976年3月25日)
シンガー:吉田美奈子・作詞&作曲:大瀧詠一・編曲:多羅尾伴内(大瀧詠一)/山下達郎

楽曲秘話:この曲、夢で逢えたら/シリア・ポールさんでも77年にリリースされている。

吉田美奈子はLPの中の曲だからシングルでは出したくないとして、シングル化はできなかった。
でも業界には受けていたらしくLPでの楽曲だけどよくラジヲで放送されていた。後に多くのアーティストにカバーされている。

大瀧詠一の楽曲で一番カバーされているこの楽曲は、誰でも聞いたことがある楽曲だけど誰も大瀧氏が関わっていることをあまり知らない。
それはこの時代、歌詞とサウンドは歌手のものとして認識されていた時代の記憶なのです。

また、都々逸(ドドイツ)や落語などからの要素も取り入れて、現代風にドリーミーにモダン・ポップスにアレンジされたことはあまり語られていない。
一例
都々逸(ドドイツ)での「夢で会えなきゃ何で見る・・♪見るまで一日寝て暮らす・・♪」

夢で逢えたらの歌詞「夢であなたに会えるまで眠り続ける・・・・・♪」として活用している。

いろんなことを徹底的に調べ研究し移し替えて全く新しものを作り出す見識は見事なものだった。

参考音源『夢で逢えたら・メドレー特集』

エピソードⅢ:『風立ちぬ』

Credit title:シングル『風立ちぬ』(1981年10月7日)
シンガー:松田聖子・作詞:松本隆・作曲:大瀧詠一・編曲:多羅尾伴内(大瀧詠一)

楽曲秘話:ご存知、松田聖子のヒット曲の一つ「風立ちぬ」は、81年に発表された。大瀧氏初めてのアイドルへの楽曲提供です。
この年くしくも「A LONG VACATION」も発表されていたのだが、松本隆氏からオファーがあった。
曲はもちろん大瀧氏で詩は松本氏ですが「はっぴいえんど」時代からのゴールデンコンビで「A LONG VACATION」もこの二人の作品です。

この「風たちぬ」のヒットで平行して発売されていた「A LONG VACATION」も徐々にヒットチャートの上位へこの年の瀬には大ヒットへ向かうことになりアルバムで1位を記録しミリオンへと向かう。

大瀧氏によれば「代打」のようなオファーだったという、松田聖子はファンのひとりとして嬉しく引き受けたという詩の内容も定かではないが自信はあったという、そしてタイトルのみ見て曲を作ったというが、あとで詩を見て言葉が多いので驚いてメロディーを足したと語っている。

この楽曲で一番印象に残ったのは「歌謡曲の王道の方程式」を一つ見つけたと氏は語っている。

聖子さんの曲を作ってヒットできて1位は嬉しいが自分の作品でないと自身は「職業作家ではない」とあくまでも代打として考えているとも言っている。

しかしこの後数々のアーティストやアイドル・芸能人に楽曲を提供する起点にもなるのがこの「風立ちぬ」なのです。
そしてこの流れは後の80年代での日本のポップスの源になり後に『Jポップス』へと進化し開花するするとは当時誰も考えていなかった。

やはり大滝詠一という人物は他のアーティストとは異なり『音楽仙人』だ。

エピソードⅣ:最後のオリジナル・アルバム『EACH TIME』

Credit title:アルバム『EACH TIME』(1984年3月21日)
シンガー:大瀧詠一・作詞:松本隆・作曲:大瀧詠一

楽曲秘話:81年「A LONG VACATION」から三年後にリリース。

前作のヒットから間が開いたのを指摘されると、『完成しなかっただけ「才能の不足」(笑い』と大瀧氏らしい「オトボケ」を発していたが、
今作品において色々心境の変化と心の格闘があったらしい。

この『EACH TIME』を最後に10年間沈黙期間に入るが、結果的に大瀧氏自身最後のオリジナル・アルバムになってしまうことになるとは残念でなりません。

大瀧詠一と細野晴臣のレコーディングの相違とは

大瀧氏曰く、日本のポプスの歴史を語れば、55年からポップスの歴史が始まったとすれば、まだまだ歴史は浅い。

このアルバムはあまり新しい手法は使ってないと語っているが、当時から氏のレコーディング手法は常軌を逸している所があったらしい。

氏がアルバムを作るとき多くの演奏者を駆り出されるので・・他のアーティストのレコーディングができなくなるらしい、
古典的な方法でアルバムを作る=新しい手法で大瀧は作っていると思っているが実は古典的。

だから人件費は高くなるが初めて聞く人が懐かしい感じのするサウンドを目指した。

古典的な手法とは細野晴臣氏の対局にあるが、実は過激だと言われてる。一度に多くの演奏者に演奏させて音が合わなければ終わらない長時間拘束。

デジタル機材で合成するのは簡単だが、当時よく使用されていた「リズムボックス」なども一切使わないらしい。
機械に支配されるのが嫌だと、氏は語る。

今の人のサウンド作りの手法とは異なり人と違う道を目指すのが好き・・・?
いや、やっていることが結果としてこうなるので、あまり考えて行動はしない性格だけど・・と語っていた。

気が付くと自分の音楽が少数派になっていた=手法、だけど作品は少数派ではない。

大瀧氏が語る、アルバム『EACH TIME』の概要

「夏のペーパーバック」このアルバムの中での糸口(始まり)となる楽曲。

「はっぴいえんど」の続きを松本隆がメッセージを付けて作った曲がある「1969年のドラッグレース(まだまだレースの途中という意味)」
ホット・ロッドをやりたかった日本のホット・ロッドをやりたかった。
※過去の遺物だけどR&Bの基本パターンに強引に仕上げた曲です。

「恋のナックルボール」女の子を野球観戦に見に連れてってデートに誘ってさあ、どうするかという歌。
少年時代、野球部で活躍、右投げ左打ちだったけど、器用貧乏で途中で挫折そんなことを思いながら作った。

「ペパーミント・ブルー」は夏に海に行く時に聞いてもらいたい曲。

最後に1991年にアルバムをリリースすると番組内で自ら宣言した・・けど。
ご冥福をお祈りいたします・・

音楽仙人=大滝詠一『参考資料一覧』

  1. 「大瀧詠一さん追悼特集『「ロング・バケイション」とは何だったのか?
  2. 「大瀧詠一さんが残した音楽」
  3. 追悼 大瀧詠一 (vs浅草キッド)
  4. 黄金歌謡伝説「風立ちぬ」エピソード
  5. サウンドストリート 佐野元春
  6. とんねるずのちゃだわ王国 1986年

まとめ

大滝詠一という人物像を簡単に「まとめ」られるのではなく未だに不思議な御仁である、また語るにはおこがましく思う。

どこか「ひょうひょう」として人を煙に巻くようなところがあり、かと言ってサウンド面ではプロ中のプロとして理論派であり且つ実践派である。

サウンドを追求するあまり様々な実験をし追求するところは尋常ではなかっただろう。

音響機材を早くから手がけている中で、技術もテクニックもあるのだが、それでもアナログに徹するところも持ち合わせている独自のサウンド感性は、今後現れないかもしれない。

氏を語るには多くのファンの方々がこれから後世に残すのでしょうが・・ともに時代を共有できたことに感謝を申し上げます。

ご冥福をお祈り申し上げます・・合掌。

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